最近認識しつつある、自分の意思決定の際のバグ

今回は、「最近認識しつつある、自分の意思決定の際のバグ」というテーマで書いていきたい。というのも、「理詰めの専制」が自分の人生をどこか息苦しくしているように感じ、意識の変革が必要な部分が見えてきたためである。少しでも誰かの参考になれば非常にうれしい。

とかく論理的思考、客観的な納得感を持たせた説明をすることが重視される傾向にある昨今の世の中だけれど、人間が物事に対峙するときの現象の順番としては

①まず 感覚 が感じる → ②それを論理や理性が追いかける形で説明/分析しようとする

であるはずだ。

そのわりに、他者と共有できるのは論理/理性(=客観性を帯びたもの)であるからという理由で「言語化が可能なもの」や「論理的説明がしやすいもの」しか相手にしない自分がいたりする。自分の直感が働いていても、客観的に合理性を示せないときにはその直感を無視してしまうことが多い。

だけど、感覚を、感じたことを、 「説明不可能」「分析不可能」を理由に切り捨てるのは、自分の世界を狭く貧しい、何かむなしい物足りないものにしてしまうのではないだろうか、と最近は考えるようになってきている。 たとえば何か意思決定をする際、それを支える理由については、もちろんある程度分析的に言語化もできるかもしれないが、その「言語化可能な部分」がすべてではないことはちゃんと意識しておくべきだと思う。「客観的合理性が示せることをもって、すべてを割り切ってベストアンサーにたどり着ける」というのは単なる思い込みで、幻想なのかもしれない。

 自分の生き方について考えてみても、論理的なところで合理性だけに満足していても仕方がない。幸せに関しては主観が大いにmatterするわけで、そこに合理性などという基準を持ち込むことはそもそもナンセンスなのかもしれないのに、それに気がつかないことが多い。 人間が生きているのは、実は、「感じること」という曖昧で不可視な基準が大いにmatterする、言語化できる(=議論にのぼってくる)ような説明だけでは足りないcomplexityを持った世界であり、僕はそれを受け入れていくべきなのかもしれない。

自分の偏愛に実直な人間になるべきかな、と考える今日この頃でした。


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